104 細腰を抱き、乱世を想う
- 2016/12/09
- 19:42
街の群衆は、天空からの陽射しを受けて、大汗を発していた。汗は流れ、飛び散り、なおまた吹き出している。それは7月の陽光ともう一つ、車駕に乗って
「暑そうな。」
そもそも、彼がいるのは、自邸である
「あなた。式典に参列されなくて良かったのですか?」
傍らに立つ妻、
背の高い籐椅子に深く腰掛けた焚学明は、問いには答えずに妻の細腰を撫でている。
優しく、愛でている。
炎勢里の街を遠く見下ろしながら。
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炎勢里。
水深深い東の炎勢里湾と、それに西から注ぎ込む
しかしその割に、街が狭小だった。
海と河の岸近くまで、南北の山が迫り、平野が少ない。この為、山の斜面にまで建物群がせり上がって街が広がっており、過大なその機能をなんとか満たしている。河岸、海岸、山の斜面と、小路が縦横無尽に走り、迷路のようであったが、そこに多くの市民が活発に動き回るものだから、至る所で人々は溢れ、渋滞していた。
だがそんな街の中に一本だけ、整然とした大路がある。
それを、麗后大路という。
炎銃河から炎勢里湾の北岸に沿って、10mの幅を保持したまま市街地を東西に貫いている。貝混じりの玉石で舗装され、見る者の目を痺れさせる程に白く鮮やかに輝いており、街を象徴する大路であり、流通都市を機能させる大動脈であった。
ちなみに水軍にも道路にも冠する「麗后」という呼称だが、これは両方を造った州王燦家の初代、
とにかく今、街は沸いている。
麗后大路を、煌びやかな一団が隊列為して整然と行進し、道の両側の市民が汗をほとばしらせながら見物しているのである。
始祖燦蝉が炎州王に封ぜられてより、代を重ねて182年。燦家は有力諸侯ではあったが、つまる所、
焚学明は尖った顎をしゃくり、細く長い鬚をそよがせた。
「盛り上がっているなあ。世紀の婚姻からの一周年祭ということだが。」
その時、街から、一際大きな歓声が沸いた。
炎州王燦鹸とその妃である
女霧 ―
その姓から察せられる通り、大
車駕の上、州王は群青、王妃の女霧は真紅の正装で、大路の白光の中に浮き立つようであった。
「州王様の威風。王妃様の美貌。なんて華やかな。眩しゅうございますわ。学明様、この海遼閣から眺めるのではなく、お近くから拝顔されたが良かったのでは?」
李優は、こぼれそうに大きく濡れた眼を向ける。絹の袍は身体の線を強調させ、大きく開いた背中や露出した両の腕は白磁の如し、まだ若い華奢な肢体は硝子細工のようにはかなげであった。
「父上が州王に付いて回っている。大丈夫だ。」
「あっ」
焚学明は李優の細い腰をつかんで引き寄せ、ひょいと膝に乗せた。
燦家万歳!霧皇妃万歳!鹸州王万歳!
夏日の直下、麗后大路には州王夫妻の大車駕を中心に、群衆が諸手を上げて万歳三唱、綺羅々々しい絹布の大旗が随所で振られ、紙吹雪が舞い、銅鑼や管弦の音が響き渡っている。
「お前が行きたかっただけじゃないか?李優。」
「そんな。だんな様と一緒ならともかく、一人で行っても仕方ありません。」
「ふ。この格好で行ったら、王妃より衆目を集めてしまうだろう。」
「そんな。恥ずかしい。」
李優は頰を赤らめ、我が腰を夫に撫でられるままにしながら、頰が触れるほど接近して、夫の顔を見つめ、
「先月、
と、言うと、
「お。」
焚学明はぐっ、と顎をひいた。妻の言葉に虚を衝かれたようである。
そう。
眞暦1876年6月、穣界は地獄と化していた。
黄土平原に突如発生した
生きている飢餓民は難民となった。
穣界東部では一団が
(地獄絵図よ。)
焚学明は脳裏に浮かべていた穣界の惨状から、ふと眼下に展開する享楽の風景に意識を移したが、そのあまりの隔絶に、少し
「この大地の北半が壊滅したのですから。その中にあって州王様達は、あまりに華やかで、眩しゅうございます。」
「南だって、危ないぞ。」
「ここにも蝗が満ちますか?」
「いや。蝗より頭が痛いわ。」
大姚帝国の正統がこの炎州に嫁ぎ滅亡してしまった今、中原である附類平原は二つの勢力に集約されたが、とても大災害に対応できる政権ではない。双方が手を取り合ったところで、上述のように、難民の越山を阻止するだけで精一杯だ。
(もし今、
そんな英雄達ならば、附類平原という揺籃から飛び出し、まず楽界を制覇して国富を掌握し、その後に穣界の混乱を鎮めて復興を進めるであろう。この
急に、膝上に座っている李優が、焚学明の首へ、その真っ白な腕を巻きつけた。
「ついに。この楽界が乱れるのですか。」
「これまでも戦はあったじゃないか。現に
「いえ。穣界の擾乱みたいになるのではないかと。零丹璧との戦など、それに比べたら、子供の遊びのようなものでしょう?」
焚学明は壊れそうな妻の手を優しく撫で、首に絡ませたままにしておいた。麗后大路から響く嬌声が耳障りだが、妻から漂う薫香を嗅いで、心は静かに保たれている。
「そうだな。
焚学明の薄い唇が今度は悪戯坊主のように、前に向かってとんがった。妻はそれを聞いて絡めた腕を少し解き、我が夫の顔を、間近に覗き込んだ。
「まあ。それは素晴らしいわ。楽界を中心とした国家が出来るということですわね。
妻の顔から恐怖は消え、いつの間にか溢れそうな黒眼を濡らして、夢見る表情に変わっている。
「だんな様。燦鹸州王は如何かしら。国力は楽界随一、楽河流域の覇者として最有力ですわ。」
「だが、零丹璧に手こずってるくらいだからなあ。どんなものか。」
言ってしまってから、衛士の存在を思い出して少し慌てたが、彼は無心に竹扇を振っている。心配は不要なようだった。
(だが、お后の力を借りる手がある。それこそこれ以上ない大義名分となろう。天下を狙えるか?)
焚学明はにわかに鋭い目つきで、喧騒の麗后大路を睨んだ。あの車駕の上に州王燦鹸がいる。今は鮮やかな青の装いが見えるだけ、表情はここからでは分からない。だが、
議堂でよく見かける、州王の赤黒い顔相を思い浮かべる。
(精力的ではあるが。)
7月の陽光は倦まずに州都炎勢里の街に照りつけ、州王夫妻への万歳もまた、沿道の群衆が飽きずに続けている。
それを見る焚学明は、といえば、高台の自邸で涼しい風に吹かれながら、こちらも美しい妻の腰を延々と撫で続けていた。
しかし、焚学明の表情は厳しい。
その脳内は、程なく始まるであろう楽界の大乱に思いを巡らせ、目まぐるしく稼働していたからである。
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炎州
附類平原
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